振り千切れるまで褒めろ

えー、人間には叱られて伸びるタイプと褒められて伸びるタイプがいる、などと申しますが。

褒められるのも叱られるのも、どう受け取るかは受け取るほうの個性次第。さらには体調であったり心境であったりの要因で、まったく同じことを言っても受け取り方が違ったりする。私の性格には「小心者」「褒められ慣れていない」という要素が含まれているため、褒められる場合は1/3、叱られる場合は3倍に受け取ってしまう。

以前も語った、長く過酷なゲームプログラマ時代。プログラミングに関して「師匠」と呼び習わしていた当時の職場の社長には、8年ほどの期間で3回褒められた。内容はもう忘れてしまったが、3回という数字だけは忘れられずにいる。中学生までは優等生だったので褒められるのが当然だった私にとって、「褒められ慣れていない」という新しい性格を植えつけるには十分な期間と数字だと思う。

もちろん師匠には大変感謝している。厳しく指導してくれたおかげでなんとか「プログラマ」を名乗れるようになり、そのおかげで今ごはんが食べられているのだから。

さて。時は巡り、私は年をとり、開発現場では年長者という立場になることが多くなった。若い後輩たちの指導や、もっと直接的に研修を受け持つことも仕事の一部になってくる。しかし残念なことに、どうも私は「教える」という行為にあまり適性がないらしく、自分で納得できたり他人にアピールできたりするほどの成果は手にしていない。できるヤツは教えるほどのことをせずともどんどんできるようになるし、できないヤツは手を変えても品を変えてもなだめてもすかしても一向にできるようにはならない。2ヶ月ちゃんと「研修」という期間を与えても配列の概念を理解できないヤツもいたぐらいだ。何を教えてたんだ職業訓練校。

おっと話がそれた。そんな中、現在の職場ではかなり後輩に恵まれている。付きっ切りで指導する必要がある人間はほとんどいないし、教えればきちんと理解するまで投げ出さない。みんな「プログラマ」として中途採用されてきてるんだから当然といえば当然ではあるのだが、今まで私が見てきた経験からすると「優秀」のラベルをつけて差し支えない連中だ。

だが、どうも何かが欠けている。なんだろう、微妙に頼りなく感じるのは…と考えてみたら、思い当たるのは「自信のなさ」だった。裏返せば「慎重」という美点でもあるのだが、困難に立ち向かうには自信に裏打ちされた大胆さが必要な場合もある。ではなぜ、優秀ラベルがつけられる能力があるのに自信が足りないのだろう…と考えたところで、はたと思い当たった。

私は彼らを褒めているか?

冗談めかして「君らは頼りになるよー」などと口にすることはあるが、明示的に「ここがすごい」「これはいい」と褒めたことはあまりないようだ。自信は成功体験によって作られる。もっとも卑近な成功体験は、褒められ認められることだろう。なのに、一番近しい先輩である私が褒めないで誰が褒めるというんだ。

このことに思い当たって衝撃を受けていた昨日、ちょうど飲み会(長く勤めた社員の送別会だ)があった。二次会の席に「褒め対象」の後輩が3人いたので、思い切って褒めてみた。褒め言葉は1/3しか届かないという私基準を適用して、それはもう執拗に。みんな若干豆鉄砲を食らったような顔(もしくは「先輩まーたへべれけだよ」という呆れ顔)をしていたが、ちゃんと伝わっただろうか。伝わっているといいな。

とりあえず手始めとして、アルコールの力を借りての「褒めちぎり」を実践してみた。これからの課題としては「適切なタイミングに」「具体的なポイントを挙げて」「素面で」褒めることができるようになることである。

もちろん対象のキャラクタによっては「褒められフィルタ」が3倍 / 「叱られフィルタ」が1/3という困ったちゃんも存在する。そのような場合にはちゃんと個性を見極めてバランスをとらねばならない。

というわけで「明示的に褒めよう」という決意表明をしてみた。成果が出るようなら続報する予定である。「実践・褒め力」とかテキトーなタイトルで本でも書いてやろうか、などと皮算用を披露したところで本エントリおしまい。ここまでの長文をちゃんと読んでくれたあなたは、大変素晴らしい(褒め力)。